『敗戦と戦時下の人々』
お話:後藤(ごとう)啓倫(ひろみち)さん(星槎道都大学専任講師)
日米開戦時の日本の戦略上の目的は東アジア支配の確立でした。そのなかで「大東亜共栄圏」という理念を掲げましたが、日本自身が朝鮮、台湾などを植民地としていたという矛盾を抱えていました。
特に独立志向の強い朝鮮に対し、創氏改名など同化政策を強化することで、日本人と朝鮮人は同一なので独立させる必要はないという理屈で矛盾を解消しようとしました。
労務動員を行い、戦争末期には徴兵制も実施しました。敗戦後、在日朝鮮人200万人のうち150万人は帰国しましたが、朝鮮半島の南北分断と朝鮮戦争により帰国できなかった人たちが日本で生活するようになりました。
一方、朝鮮半島には満州からの避難者も含めて100万人近い日本人がおり、多くは帰国しましたが、なかには「朝鮮人」としての人生を選択した人もいました。
ソ連の参戦時、「満州国」には160万人ほどの日本人がいました。関東軍・満鉄・政府の関係者は帰国しましたが、兵士・民衆の多くが残されました。60万人前後の兵士・民間人がソ連によってシベリアに抑留されました(詳細は今なお不明)が、そのうち1割ほどの人々は亡くなりました。また、帰国途上で親とはぐれた子どもは中国残留孤児となりました。戦場となった沖縄は本土防衛のための時間稼ぎの捨て石とされ、陸軍中央の混乱もあって住民の4人に1人が犠牲となる悲劇となりました。
1944年、マリアナ沖海戦・レイテ沖海戦で日本海軍は事実上消滅し、絶対国防圏とされたサイパン島も占領されて本土空襲が始まりました。1945年になると、外務省・宮中・重臣など講和派と陸軍など継戦派とがいかに納得する形で降伏に向かっていくかが焦点になりました。そのなかで、近衛文麿は共産革命と天皇制の崩壊を防ぐために、「聖断」シナリオを構想していました。一方で天皇は米軍に打撃を与えたうえでの外交交渉という「一撃講和論」を支持していたといわれます。ドイツ降伏後のソ連の対日参戦というヤルタ密約を知らない日本はソ連を介した講和を画策します。戦争目的も「国体護持」としてそのための本土決戦に備えます。
7月末ポツダム宣言が発せられると、政府は「黙殺」、陸軍は徹底抗戦の構えです。8月、原爆が投下されソ連が参戦するなかで、政府・軍首脳による最高指導者会議は結論を出せず、御前会議は「聖断」による宣言受諾を決定し、連合国に伝えます。これに対する回答を外務省は天皇制存続が認められると解し、天皇も同意します。閣議ではまとまらず、御前会議で天皇は宣言受諾と玉音放送を表明し、陸軍若手将校のクーデタも鎮圧され、8月15日には玉音放送となりました。「聖断」に関しては、天皇が政府・軍部の混乱を見かねて降伏を決断した、というかねてからの「聖断神話説」、天皇が戦局挽回にこだわって降伏を渋り被害の拡大を招いたとする「遅すぎた聖断説」がありました。これにたいし、「聖断」は軍内部の抗戦派を抑えるための演出で、誰もが最初に降伏を言い出すという不名誉を免れ、部下に対する面目を保ちながら戦争を終結させた、という「聖断演出説」も近年唱えられています。
厚生省調べでは、日中戦争から敗戦までの間に約310万人の日本人が犠牲になっています。軍人・軍属の犠牲者230万人のうち60%は餓死・戦病死などで、戦闘によるものではありませんでした。戦後も身体障害や精神疾患に苦しんだ人もいます。また、アジア諸国の犠牲者は2千万人に上るとされます。
いずれにせよ、戦争被害を最も被るのは普通の人々と末端の兵士です。国民の生命・財産・安全を守るという国家目的を達成するうえで、軍拡による安全保障政策が有効な手段といえるのでしょうか。近代日本は戦争と植民地支配によって発展し滅びたのです。また、日本では沖縄以外では広島・長崎などに戦争の痕跡が残っていますが、中国では至る所に痕跡が残っています。韓国でも植民地支配の痕跡が残っています。過去の戦争や植民地支配にどの程度敏感になれるかは、日常生活のなかにその痕跡が残っているかどうかに関係していると思います。

2024-11-10(吉田記)