『占領構想と新憲法の制定』
お話:後藤(ごとう)啓倫(ひろみち)さん(星槎道都大学専任講師)
対日占領政策は、大戦末期に国務省・軍部を含む米政府内で形成され、日本の民主化と非軍事化が基本方針となりました。この時点では、占領軍による直接統治も検討され、天皇制については事態を見極めながら判断するというものでした。日本は天皇主権・天皇大権の護持を前提にポツダム宣言を受諾しましたが、これでは民主化は不可能と見たアメリカは「天皇および日本政府の統治権限は連合国最高司令官に従属する」として、天皇制については日本に対しイエスともノーとも語りませんでした。米軍の占領が始まると、日本の降伏が米の予想より早かったことや武装解除が天皇の命令で迅速に進んだことで、GHQは天皇を利用することで円滑な占領政策ができると判断し、それは天皇制を維持したい日本の思惑と一致しました。
まもなく開廷が予定されていた東京裁判では、連合国内で天皇の訴追に関して議論がありましたが、米は武装解除のめどがつくまでは天皇の戦犯問題には触れない方針でした。結局、GHQは占領政策のため天皇免責を決定し、連合国の極東委員会も追認しました。日本政府は、天皇の立憲君主としての性格を強調し、開戦の責任を軍(東条)の責任とすることで天皇免責を正当化しました。こうして日米両政府・GHQは一致しましたが、天皇制を利用したい米政府・GHQは戦前の天皇主権をそのまま残すことは考えていませんでした。日本政府の立場はあくまで「国体護持」です。ここで、日本軍国主義を脅威とみる連合国・国際世論の反発を抑えられ、日本の民主化・非軍事化を目指す米政府も納得し、GHQも天皇を利用できかつ日本の統治機構の崩壊を招かない「最適解」としての新憲法が必要となりました。
幣原内閣の下で憲法改正作業が始まりますが、幣原首相や吉田茂は共産主義勢力への対抗のためアメリカは日本に融和的態度をとるはずで、明治憲法を維持することは可能と考えていました。憲法学者の美濃部達吉や宮沢俊義も明治憲法を改正せずともポツダム宣言の履行は可能と考えていました。しかし、占領政策の最高意思決定機関として連合国の極東委員会の設置が決まると、GHQの占領政策・憲法改正構想が拘束されることが予想され、米政府は委員会の初会合の前に憲法改正の既成事実を作って天皇の問題にけりをつけなければならなくなりました。このようなタイミングで憲法調査委員会の「改正試案」は毎日新聞にスクープされ、天皇主権など明治憲法とほぼ同じ内容であったことから、GHQは独自に改正草案を作成しました。それは主権在民に基づく天皇制、戦争放棄と戦力不保持という日本国憲法の原型となるものでした。幣原首相は抵抗しましたが、回答を受け入れなければ草案をGHQが公表するということでした。
結局、「主権者ではない天皇と戦争放棄が要点」として受け入れました。その結果が象徴天皇制と戦争放棄をうたった第1条と第9条でした。こうして、天皇は政治に一切関与しないシンボルとして存在し、天皇制の存続は国民の総意に委ねられているということになりました。日本が戦争放棄、戦力不保持により再び連合国の脅威とならないことを約束して、米国主導の占領政策は連合国の同意を得たのです。

2024-12-07(吉田記)