皇后と憲法

今は亡き母はミッチーファンでした。1972(昭和47)年2月に開催された札幌オリンピックのフイギュアスケート会場で、すぐ近くの席から観戦に訪れた皇太子妃を見ることができた、と興奮して語っていたことを思い出します。

その母の7回忌を執り行った年の10月20日、79歳の誕生日を迎えたのに際し、美智子皇后は宮内記者会の質問に文書で次のように回答しました。

「五月の憲法記念日をはさみ、今年は憲法をめぐり、例年に増して盛んな論議が取り交わされていたように感じます。主に新聞紙上でこうした論議に触れながら、かつて、あきるの市の五日市を訪れた時、郷土館で見せて頂いた『五日市憲法草案』のことをしきりに思い出しておりました。

明治憲法の公布(明治22年)に先立ち、地域の小学校の教員、地主や農民が、寄り合い、討議を重ねて書き上げた民間の憲法草案で、基本的人権の尊重や教育の自由の保障及び教育を受ける義務、法の下の平等、更に言論の自由、信教の自由など、204条が書かれており、地方自治等についても記されています。当時これに類する民間の憲法草案が、日本各地の少なくとも40数か所で作られたと聞きましたが、近代日本の黎明期に生きた人々の、政治参加への強い意欲や、自国の未来にかけた熱い願いに触れ、深い感銘をおぼえたことでした。

長い鎖国を経た19世紀末の日本で、市井の人々の間に育っていた民権意識を記録するものとして、世界的にも珍しい文化遺産ではないかと思います。」

これは、皇后の日本国憲法への深い理解を示すものであり、浅薄な「押しつけ憲法論」者への痛打でしょう。日本国憲法の草案を作成したGHQは「民間の憲法草案」を参考にしており、日本国憲法には自由民権運動の精神が脈々と流れているのです。

『五日市憲法草案』を世に送り出したのは、東京多摩地域の自由民権運動を掘り起こしていた色川大吉東京経済大学教授(当時)でした。1968(昭和43)年の秋、五日市深沢家旧宅の土蔵から68年間埋もれていた文書を発見したのです。

私は、仙台の大学で色川大吉の集中講義を受けたことがあります。情熱的な語り口と中身の濃密さ。大学時代における最高の講義でした。その時の感動を今も忘れることはできません。

北広島九条の会の「まなび座」では、憲法学習を重ねてきました。2か月に1回、5名から10名程度が集まり、テキストの読み合わせを行っています。こうした学習運動が自由民権運動期にも全国で展開されていたのです。(M.G)