2024年9月8日(日)、28名の方の参加で第12回「戦争遺跡を巡るバスツアー」が行われました。
今回は初めて北広島市から出て、近郊3町を尋ねました。
それぞれの戦争関連遺跡についてのくわしい説明は、こちらのPDF(☚click)でご覧ください。
2024年8月 戦争体験を聞く会 『国後からの引き揚げと戦争の記憶』
千島歯舞諸島居住連盟の「語り部」をされている札幌市厚別区在住の佐々木タヱさんにお話を伺いました。
佐々木さんは1937年に国後島泊村キナシリに生まれ、国民学校2年生のときに敗戦を経験しました。
幼いころの記憶なので曖昧なところもあるがと前置きされましたが、島を引き揚げる際の恐怖やその後の生活の苦労、島への思いなどを話されました。
4歳のときにお父様が海難事故で亡くなった鮮明な記憶があるということでした。
その後、お母様は佐々木さんを実家に預けて飯場で働いたということでした。
1945年7月の根室空襲の際には、島から赤い火柱が見えたそうです。
8月の敗戦の際には、灯火管制が無くなってほっとしたけれども、お母様は「これからのことを考えると髪の毛が逆立つ」とおっしゃっていたということです。
まもなくソ連兵がやってきて学校を占拠したり各家庭を略奪したりしましたが、貧しいがゆえに取られる物も無かったそうです。
9月に島からの引き揚げを待つ間、東沸で家族8人隠れていました。その際、飼っていたネコが心配でキナシリの家に一人で戻りますがネコは見つけられず、東沸の家族のもとに帰ると大騒ぎになっていたそうです。
根室への引き揚げの際には小さなボートで沖の漁船に乗り移ったのですが、恐怖と疲労で眠ってしまったということです。
焼け野原となった根室から知人を頼って音別に移り農家の物置小屋での生活の中、佐々木さんをかわいがってくれた祖母を亡くしたこと、ひもじさに耐えられず饅頭を盗んで食べてしまったことなど伺いました。
その後、お母様の再婚により根室で生活したということでした。1956年の日ソ共同宣言の際には歯舞・色丹が戻ってくることを期待しましたが、それはなりませんでした。
2014年の北方領土墓参の際には国後島東沸を69年ぶりに訪れましたが、あまりの変わりように呆然としたそうです。
2016年には自由訪問で故郷の泊村キナシリを訪れましたが、人が住んでいた痕跡は何もかも無くなっていたということです。悪天候もあって生地を目前に引き返しましたが、自分と島を結びつけるのはこの時に拾った砂浜の小石と、島を脱出する際にお母様が持ち出した通知箋だけだとおっしゃっていました。
佐々木さんは、お父様が根室から国後島に移ってそこでお母様と結婚して生まれたということでしたが、昨年お父様の戸籍謄本を辿って調べたところ、江戸時代末期の天保年間に先祖が国後島泊村に住んでいたことがわかったそうです。
北方領土墓参の際に同船したロシア人家族(日本から島へ帰るところでした)の姿を見た際には、帰るべき故郷を失った自分の境遇にあらためて複雑な思いを抱いたそうです。
ご自身も年を重ね島がどんどん遠ざかる思いだが、自分の記憶・思いを次世代につなぐことが使命と思い「語り部」を続けているということでした。
2024年6月例会「アジア太平洋戦争への道~近代日本の戦争を考える」
「満州事変(昨年11月例会)」、「日中戦争(本年3月例会)」に続いて、今回は「アジア太平洋戦争」について、星槎道都大学専任講師の後藤啓倫さんのお話を伺いました。
日中戦争の延長線上で日米戦争が始まると、それがアジア太平洋戦争の中心となり多くの人々が犠牲となりました。
しかし、日米衝突の原因を明確な利害対立に求めるのは困難で、専門家の間でも議論されています。日中戦争には中国での権益の確保・拡大を狙う日本と、それを阻止しようとする中国という構図がありました。日英間には、日本の中国での勢力拡大がイギリスの権益を脅かし東南アジアにおけるイギリスの植民地の脅威となる、という利害の対立がありました。
しかし、アメリカは中国に関して特別な権益を確保していたわけではなく、自由貿易を強く求めていたにすぎません。日本は、蒋介石政権を屈服させ蒋政権を支援するイギリスを屈服させるという方針の一方で、アメリカに対しては戦意を喪失させるというのが方針でした。にもかかわらず、日米戦争は始まりました。
世界恐慌に際して、アメリカはニューディール政策とドル・ブロック、イギリスはポンド・ブロックの形成で対応します。しかし、それほどの植民地・資源・経済力を持たない日本は、自力で経済圏を創り出すために実力行使(戦争)もやむなしと考えるようになりました。その流れが満州事変以降の展開です。日中戦争が長期化する中でドイツのポーランド侵攻に対して英・仏が宣戦し第2次世界大戦が始まりました。1年足らずでドイツはヨーロッパの大半を制圧しました。東南アジアに植民地を持つ仏・蘭はドイツに降伏し、英も植民地に手が回りません。
こうして東南アジアに権力の空白が生じ、日本では陸軍を中心に南方進出論が浮上します。ドイツのイギリス打倒に協力することで、日本が東南アジアを植民地化しようとしたのです。大東亜共栄圏構想を発表し、日独伊三国同盟を締結しました。アメリカに対しては、同盟が日本の構想を妨害させないための牽制となることを期待しました。南方進出に備えて日ソ中立条約も締結します。
一方アメリカはドイツを強く警戒し、そのため孤軍奮闘するイギリスを支えることが重要でした。こうしてイギリス防衛という観点から日本の東南アジア進出を阻止する必要に迫られ、ヨーロッパとアジアの情勢が連動して東南アジアが日米対立の焦点となりました。特に南部仏印(南部フランス領インドシナ:現ベトナム南部)進駐は日米対立を先鋭化させますが、アメリカにとってはイギリス支援が最重要で、日本に対する手段はあくまで経済制裁でした。
しかし、石油輸入の9割をアメリカに依存していた日本にとって石油禁輸措置は死活問題で、陸海軍は石油獲得のために今日のインドネシア進出を主張するようになりました。アメリカとの外交交渉を継続する一方で、対米戦争も辞さずという考えが登場してきました。とはいえ、対米開戦まで一直線に進んだわけではありません。開戦を主張する東条英機が首相となったのも、強硬な開戦論の陸軍を統制できるのは現役陸軍大将の東条しかいないという判断からでした。アメリカにもハル・ノートと同時に提示されるはずだった暫定協定案がありましたがそれは提示されず、日米交渉は最終盤で決裂し戦争は始まりました。
国力で圧倒的に劣る日本がアメリカと開戦したのは無謀といわれますが、開戦時点での太平洋における戦力を比較してみるとそうとはいえません。五分五分かむしろ日本が優位に立っていた面もあります。しかも、アメリカはドイツとも戦わなければなりませんでした。したがって、短期決戦なら勝利可能とした判断は、当時の指導者たちのある意味「合理的な計算」によるものだったともいえます。
しかし、開戦後は初期の優位だけで、陸軍と海軍の方針の相違や補給路の軽視など様々な要因から半年後には負け戦モードに入り敗戦まで挽回できませんでした。日本は主敵を英・中に絞ってアメリカとの戦争を回避しなければなりませんでした。
一方アメリカは日本の暴発を防ごうとしながらも、日本を追い込みすぎてアジア・ヨーロッパでの二正面作戦を強いられることになりました。特に日米間には決定的な利害対立があったわけではないにもかかわらず、日本はアメリカの「継戦意志を喪失せしむる」というあいまいな目標のもとに戦端を開いてしまいました。その後も戦争理由や決着の付け方がよくわからないままに現状を追認していきました。まさに丸山真男がいうところの「無責任の体系」のなかで、日本人310万人・米軍軍人10万人・アジアの人々2000万人以上という犠牲者を出しました。しかも戦争の割を食うのは、いつもながら戦勝国・敗戦国問わずに戦果の末端にいる人々です。
<HP担当者からのひと言>
後藤先生の話を聞いてあらためて思うのは、この国は戦争をしてはいけないどころかできない(どれほど軍事力を持ったとしてもそれを活用する能力を持たない)国だということです。
『暁の宇品 陸軍船舶司令官たちのヒロシマ』(堀川 惠子 講談社BOOK倶楽部)というノンフィクションがありましたが、アジア太平洋戦争当時の指導者がいかに兵站を軽視していたかよくわかります。
憲法記念日 「憲法と平和・九条の会」パネル展
5月3日は憲法記念日。
北広島九条の会の活動を紹介しつつ、「憲法と平和」について考え
「今こそ憲法九条を生かそう」の思いを込めて、パネル展を行いました。
当日の様子の一部をご紹介します。
今年度から18歳と22歳の市民の名簿を自衛隊に提供すると北広島市広報4月号に掲載されました。
個人情報を守るべき市が本人の許可を得ずに個人情報を勝手に他人に提供することは許されません。申請すれば提供を拒否できますが、自衛隊への名簿提供を了解した人だけへの提供とすべきです。
北広島原水協主催「平和さんぽ(平和行進)」は、2024年5月21日(火)11時に市役所前の「リンリン広場」に集まり、体育館横の「平和の灯公園」に向かってエルフィンロードを歩きます。
2024年4月例会「「何のための大増税? ロシア・イスラエルの暴挙を踏まえて岸田大軍拡を斬る」
弁護士の神保大地さんにお話を伺いました。
「わが国の安全保障のために」という名目で、政府はかつてない大増税を進めようとしています。
かつては、ウソであっても「社会保障のために」という口実で消費税をはじめ増税が行われてきましたが、今進められようとしているのは「戦争する国」に向かっての大増税です。
防衛力強化の名の下に進められているのは「敵基地攻撃能力」の整備です。戦闘機やイージス艦に搭載するミサイルの能力向上や取得、極超音速ミサイルの研究開発など。安倍政権時代にすでに決まっていましたが、戦闘機の購入にも数千億円が計上されています。GDP比2%がNATO諸国並みとのことですが、そうすると日本はアメリカ・中国に次ぐ世界3位の軍事大国になります。
「自衛」のためと言いますが、周辺国にしてみれば日本の軍事大国化は自国にとっての脅威となります。北朝鮮がミサイルに固執するのはアメリカからの「自衛」です。ロシアのウクライナ侵攻もイスラエルのガザ攻撃も「自衛」の名の下に始まりました。日本の軍事大国化に対して、中国・ロシア・韓国・北朝鮮など周辺国は「アメリカと一体化して軍事行動に向かう国」という警戒感を高めることになります。
「経済安全保障」という言葉をよく耳にするようになりました。一連の「戦争に向かう道」を進むことについて国内に目を向けるとどうでしょうか。軍需企業は国家機密保護ということでいざとなれば国有化ですから倒産の恐れがなくなります。基地建設・整備でゼネコンは潤います。国家機密保護の口実で公安警察の権力は大きくなります。予選配分を通じて大学に対しても統制が強められています。セキュリティクリアランスということで人権が制限されます。
一方で人員不足が続いている自衛隊に対し18歳・22歳の名簿を自衛隊に自ら提供する自治体が多くなりましたが、これは個人情報保護に明らかに反します。防衛費の膨張は大増税でも賄えないとなれば、社会保障や災害対策など国民生活を犠牲にしていかなければなりません。
そもそも「安保三文書」は憲法と衝突します。しかもそれは、国会での議論抜きで閣議決定という政府の判断だけで決められたものです。これは明らかに議会制民主主義・三権分立に反します。主権者としての国民が「なめられて」います。ウクライナ戦争もイスラエルによるガザ攻撃も「自衛」から始まりました。戦争に対する恐怖を背景に「安全」「安心」を口実にした軍事大国化を許してはなりません。
そのためには政権交代です。世論調査によれば政権交代を望む国民が多数になりました。小選挙区制の下で、実現には立憲野党統一候補が必要です。平和のために頑張っている人たちを応援し、マスコミに対しても応援が必要です。民主主義を護り育てていくためには、憲法第12条で言う「不断の努力」が必要です。「戦争に備える」ではなく、「戦争が始まらないようにする」ことこそが重要です。
2024年3月例会「日中戦争の原因と展開」
2023年11月の例会に続いて星槎道都大学専任講師の後藤啓倫さんにお話を伺いました。
盧溝橋事件から始まった日中戦争は長期化して米・英・蘭との戦争につながり、日本の敗戦まで続きました。また、強制連行や南京虐殺事件、従軍慰安婦問題など外交上の争点となることも多く、現在でも記憶をめぐる問題は解決に至っていません。
盧溝橋事件は偶発的なものでした。1937年7月7日、日本軍の夜間演習中に近くの中国軍から銃声があり、日本兵1名が行方不明となりました。兵士は20分後に帰還しましたが、日中両軍の間に緊張が高まっており翌朝には軍事衝突に発展しました。現地では数日後に停戦協定が成立しましたが、日本政府は追加要求などさらなる強硬策を現場に指示しました。中国側は政府間の外交交渉で解決すべきと主張しましたが、日本政府・軍部は交渉では解決できないと判断しました。
同月末、日本軍は総攻撃を開始し全面戦争に突入しました。背景には満州事変以来の日中関係の悪化があります。日本は傀儡国家満州国を確実なものにするため、陸軍は華北分離工作を進めていました。中国側では国共内戦が続いていましたが、蒋介石は抗日よりも共産党排除を優先する「安内攘外」策を採り、ドイツからの武器供与や軍事顧問団招待など軍備の充実を図っていました。しかし、張学良が蒋介石を拘禁して一致抗日を訴えた「西安事件」を経て、第2次国共合作が始まりました。こうして中国側に準備が整ったタイミングで日中戦争は始まったのです。
当時の首相近衛文麿は、政治家が軍人に先立って国の進むべき道を示すべきという「先手論」に立っていました。しかし、政治家はいったん戦争にのめりこむと軍人より強引になる傾向があります。この政治家のリーダーシップが悪い方向に発揮されてしまいました。
1937年10月から在中国ドイツ大使トラウトマンによる日中和平工作が始まり、蒋介石は華北の主権を侵害しないことを条件に和平に応ずる構えでした。日本側も、陸軍(特に参謀本部)は対ソ戦に備えて応じようとしました。
しかし、ドイツの仲介がなくとも中国に要求を飲ませることができると考えた近衛首相は消極的で、1938年1月には政府は和平交渉を打ち切り「国民政府を対手とせず」との第1次近衛声明を発表しました。近衛首相は親日政権を樹立して、そこと和平交渉しようとしましたが、事態は想定を超えていきます。占領地域を拡大しても蒋介石は降伏せず、大義名分の乏しい戦争に日本国民のあいだにはえん戦気分が蔓延していきます。
そこで「東亜新秩序」をめざすという第2次近衛声明を発表して、それまでの強硬な対中国方針をトーンダウンさせますが、蔣介石はそれになびかず戦争は泥沼化していきました。その理由として、①中国の国力やナショナリズムを見誤っていたこと、②ソ連を警戒する陸軍が「一撃論」を背景に兵力を限定的に投入したこと、③中国軍がドイツの支援で強化されていたことなどが指摘できます。
1930年代のドイツは日本と防共協定を結ぶ一方で、中国とは通商上の友好国でした。ナチ党には日本寄りが多くとも、ドイツ外務省には中国寄りが多かったといわれています。
南京大虐殺に関しては、当時の日本政府の内部にも認識がありました。東京裁判で明らかにされましたが、記録が残っていないため犠牲者の数をめぐって様々な推計があります。最近ではその議論よりも構造的要因の研究が進んでいます。事件の要因として、①「一撃論」を背景に軍紀に問題のある臨時招集部隊を投入したこと、②戦闘の長期化で食糧補給が追い付かず、現地調達から虐殺に至ったこと、③宣戦布告のない「事変」とされたために、戦時国際法という歯止めがきかなかったことなどがあげられます。③については、アメリカの戦争状態にある国に対する武器・軍需物資の輸出を禁ずる「中立法」の適用を日中双方が避けるためでした。
日中戦争の直接のきっかけは盧溝橋事件でしたが、背景には第1次世界大戦時の「21か条要求」以来の積み重ねが遠因としてありました。長期化した日中戦争はヨーロッパ情勢と連動して日米開戦を招くこととなりました。
日中戦争には戦争の惨禍とその記憶の課題が凝集されており、事実と記憶をトータルに語り継がなければなりません。