千島歯舞諸島居住連盟の「語り部」をされている札幌市厚別区在住の佐々木タヱさんにお話を伺いました。
佐々木さんは1937年に国後島泊村キナシリに生まれ、国民学校2年生のときに敗戦を経験しました。
幼いころの記憶なので曖昧なところもあるがと前置きされましたが、島を引き揚げる際の恐怖やその後の生活の苦労、島への思いなどを話されました。
4歳のときにお父様が海難事故で亡くなった鮮明な記憶があるということでした。
その後、お母様は佐々木さんを実家に預けて飯場で働いたということでした。
1945年7月の根室空襲の際には、島から赤い火柱が見えたそうです。
8月の敗戦の際には、灯火管制が無くなってほっとしたけれども、お母様は「これからのことを考えると髪の毛が逆立つ」とおっしゃっていたということです。
まもなくソ連兵がやってきて学校を占拠したり各家庭を略奪したりしましたが、貧しいがゆえに取られる物も無かったそうです。
9月に島からの引き揚げを待つ間、東沸で家族8人隠れていました。その際、飼っていたネコが心配でキナシリの家に一人で戻りますがネコは見つけられず、東沸の家族のもとに帰ると大騒ぎになっていたそうです。
根室への引き揚げの際には小さなボートで沖の漁船に乗り移ったのですが、恐怖と疲労で眠ってしまったということです。
焼け野原となった根室から知人を頼って音別に移り農家の物置小屋での生活の中、佐々木さんをかわいがってくれた祖母を亡くしたこと、ひもじさに耐えられず饅頭を盗んで食べてしまったことなど伺いました。
その後、お母様の再婚により根室で生活したということでした。1956年の日ソ共同宣言の際には歯舞・色丹が戻ってくることを期待しましたが、それはなりませんでした。
2014年の北方領土墓参の際には国後島東沸を69年ぶりに訪れましたが、あまりの変わりように呆然としたそうです。
2016年には自由訪問で故郷の泊村キナシリを訪れましたが、人が住んでいた痕跡は何もかも無くなっていたということです。悪天候もあって生地を目前に引き返しましたが、自分と島を結びつけるのはこの時に拾った砂浜の小石と、島を脱出する際にお母様が持ち出した通知箋だけだとおっしゃっていました。
佐々木さんは、お父様が根室から国後島に移ってそこでお母様と結婚して生まれたということでしたが、昨年お父様の戸籍謄本を辿って調べたところ、江戸時代末期の天保年間に先祖が国後島泊村に住んでいたことがわかったそうです。
北方領土墓参の際に同船したロシア人家族(日本から島へ帰るところでした)の姿を見た際には、帰るべき故郷を失った自分の境遇にあらためて複雑な思いを抱いたそうです。
ご自身も年を重ね島がどんどん遠ざかる思いだが、自分の記憶・思いを次世代につなぐことが使命と思い「語り部」を続けているということでした。