北広島9条の会

Site Logo

TEL:011-375-9600
〒061-1114 北広島市東共栄4-3-16

  • トップ
  • 九条の会とは?
  • 活動報告
  • スケジュール
  • 当会の活動・連絡先
  • 憲法と私
  • 憲法全文
  • 書籍案内
  • リンク

戦後80年、市民が語る戦争体験を小冊子にしました:『バトンタッチ』第9集を発刊

2025年2月2日 by スタッフ

130頁。頒価500円。是非お求め下さい。

【申し込み】 梁川(やながわ)まで。
TEL・FAX 011-375-9600
メール kitahiro-9jounokai@live.jp

※北広島市内在住の方はお届けします。市外の方は郵送になります(スマートレターにて¥210)。ご不明な点はお気軽にご相談ください。

「バトンタッチ」第9集に寄せられた感想

大曲在住のYさん(女性・60代)

バトンタッチを読みましたが、感動しました。
筆者はほぼ少年少女時代に見た戦争の姿。だから、とても素朴。
戦争を知らない私たちと言っても、親は戦争体験があるはず。あまり語らないとはいえ、何かを遺していると思います。
この9号が終わりにならないよう、私たちも語り継いでいかねばと思いました。
貴重な本をありがとうございました。

第9集に寄せて(全文)

第8集の発刊(2017年)から7年経過して第9集の発行となりました。この間、世界の情勢は激動し私たちの生活に大きな変化をもたらしました。
2019年の暮れ、中国武漢で発生した原因不明の肺炎患者が新型ウィルスに感染していることが判明、それがコロナウィルスとして瞬く間に全世界に感染・拡大していきました。日本では2020年4月、「緊急事態宣言」が発せられ、私たちの生活・人間関係・働き方に大きく影響を与え、ライフスタイルの変化を余儀なくされました。
世界の平和を希求するもロシアのウクライナ侵攻、イスラエルのパレスチナ自治区ガザへの攻撃など戦火が絶えません。国連は安保理事会が大国の横暴で機能していないものの、総会を中心に平和へ粘り強い活動が続けられています。更に核廃絶の願いは未だ実現せず、唯一の戦争被爆国として日本の果たす役割は大きい。せめて核兵器禁止条約に日本政府はまずオブザーバー参加をして、条約締結国と同じ方向を向いていると国際社会に示すべきです。
国内では、アベノミクスの失政による異常な円安株高・物価高騰、安倍元首相の銃撃死事件、自民党派閥の政治資金パーティー裏金事件等の政治不信が増しました。対米追従の安全保障関連法の制定から安保関連三文書も改定され、専守防衛の原則が形骸化し「戦争ができる国」へと動きつつあります。揺らいだ平和主義の理念を国の基盤として鍛え直し、「新しい戦前」への歯止めをかけなければなりません。
2004年に呼びかけ人9名で発表された中央九条の会の「アピール」を受け、2006年設立した「北広島九条の会」は誕生して18年になり、「憲法9条改悪を許さない・憲法9条を守る」を柱に活動をして参りました。戸別配布している「九条だより」は200号、例会講演会100回、まなび座は100回をそれぞれ超え、総会は十八回目を迎えました。又、コロナ禍の為中断していた「戦争遺跡巡り」は昨年から再開、今年十二回を数え、「平和のうたごえ喫茶」は再開検討中と多岐にわたる活動を続けております。
毎年八月十五日の終戦の日が近づくと、報道機関は一斉に終戦の特集を組みます。今年私が注目したのは、北海道新聞が三日間連載した『昭和の語り部 | 半藤一利(2021年90歳で死去)の伝言』です。妻末利子さん、盟友保阪正康さん、ジャーナリスト青木理さんがそれぞれの思いを語りました。そのなかで青木さんは、半藤さんが指摘した「戦争に向かう社会の6つの兆候」が強く印象に残ったと触れています。
それは、①被害者意識と反発が国民にあおられる②言論が不自由になる③教育が国粋主義に変わる④監視体制が強化される⑤テロの実行が始まる⑥ナショナリズムが強調される、というものです。まさに現代を生きる私たちへの警鐘であると考えます。
最後に戦後七九年が経過し、戦争の記憶が風化してゆくなか、この度も多くの市民から貴重な戦中・戦後を体験した玉稿を頂きました。ありがとうございます。これまでも「憲法第九条」の改悪が叫ばれ、そして今も自民党を中心に右派の動きが強まっています。私たち北広島九条の会は、一歩も引かずに「第九条」を守る意志を確認し、世界の新しい「国」の理想を先取りした「憲法第九条」の誇りを、子どもたちの明日へしっかり手渡したい。この小冊子が「平和から平和へのバトンタッチ」、その一助になればとの思いで編集しました。

2024年12月 「バトンタッチ」編集委員会 八島 将

Filed Under: 活動報告

2024年12月例会「近代日本の戦争について考える」シリーズ・第5回」

2024年12月7日 by スタッフ

『占領構想と新憲法の制定』

お話:後藤(ごとう)啓倫(ひろみち)さん(星槎道都大学専任講師)

パワーポイント資料を開く(PDF)

対日占領政策は、大戦末期に国務省・軍部を含む米政府内で形成され、日本の民主化と非軍事化が基本方針となりました。この時点では、占領軍による直接統治も検討され、天皇制については事態を見極めながら判断するというものでした。日本は天皇主権・天皇大権の護持を前提にポツダム宣言を受諾しましたが、これでは民主化は不可能と見たアメリカは「天皇および日本政府の統治権限は連合国最高司令官に従属する」として、天皇制については日本に対しイエスともノーとも語りませんでした。米軍の占領が始まると、日本の降伏が米の予想より早かったことや武装解除が天皇の命令で迅速に進んだことで、GHQは天皇を利用することで円滑な占領政策ができると判断し、それは天皇制を維持したい日本の思惑と一致しました。

まもなく開廷が予定されていた東京裁判では、連合国内で天皇の訴追に関して議論がありましたが、米は武装解除のめどがつくまでは天皇の戦犯問題には触れない方針でした。結局、GHQは占領政策のため天皇免責を決定し、連合国の極東委員会も追認しました。日本政府は、天皇の立憲君主としての性格を強調し、開戦の責任を軍(東条)の責任とすることで天皇免責を正当化しました。こうして日米両政府・GHQは一致しましたが、天皇制を利用したい米政府・GHQは戦前の天皇主権をそのまま残すことは考えていませんでした。日本政府の立場はあくまで「国体護持」です。ここで、日本軍国主義を脅威とみる連合国・国際世論の反発を抑えられ、日本の民主化・非軍事化を目指す米政府も納得し、GHQも天皇を利用できかつ日本の統治機構の崩壊を招かない「最適解」としての新憲法が必要となりました。

幣原内閣の下で憲法改正作業が始まりますが、幣原首相や吉田茂は共産主義勢力への対抗のためアメリカは日本に融和的態度をとるはずで、明治憲法を維持することは可能と考えていました。憲法学者の美濃部達吉や宮沢俊義も明治憲法を改正せずともポツダム宣言の履行は可能と考えていました。しかし、占領政策の最高意思決定機関として連合国の極東委員会の設置が決まると、GHQの占領政策・憲法改正構想が拘束されることが予想され、米政府は委員会の初会合の前に憲法改正の既成事実を作って天皇の問題にけりをつけなければならなくなりました。このようなタイミングで憲法調査委員会の「改正試案」は毎日新聞にスクープされ、天皇主権など明治憲法とほぼ同じ内容であったことから、GHQは独自に改正草案を作成しました。それは主権在民に基づく天皇制、戦争放棄と戦力不保持という日本国憲法の原型となるものでした。幣原首相は抵抗しましたが、回答を受け入れなければ草案をGHQが公表するということでした。

結局、「主権者ではない天皇と戦争放棄が要点」として受け入れました。その結果が象徴天皇制と戦争放棄をうたった第1条と第9条でした。こうして、天皇は政治に一切関与しないシンボルとして存在し、天皇制の存続は国民の総意に委ねられているということになりました。日本が戦争放棄、戦力不保持により再び連合国の脅威とならないことを約束して、米国主導の占領政策は連合国の同意を得たのです。

2024-12-07(吉田記)

Filed Under: ニュース・例会報告, 活動報告

2024年11月例会「近代日本の戦争について考える」シリーズ・第4回」

2024年11月10日 by スタッフ

『敗戦と戦時下の人々』

お話:後藤(ごとう)啓倫(ひろみち)さん(星槎道都大学専任講師)

パワーポイント資料を開く(PDF)

日米開戦時の日本の戦略上の目的は東アジア支配の確立でした。そのなかで「大東亜共栄圏」という理念を掲げましたが、日本自身が朝鮮、台湾などを植民地としていたという矛盾を抱えていました。

特に独立志向の強い朝鮮に対し、創氏改名など同化政策を強化することで、日本人と朝鮮人は同一なので独立させる必要はないという理屈で矛盾を解消しようとしました。

労務動員を行い、戦争末期には徴兵制も実施しました。敗戦後、在日朝鮮人200万人のうち150万人は帰国しましたが、朝鮮半島の南北分断と朝鮮戦争により帰国できなかった人たちが日本で生活するようになりました。

一方、朝鮮半島には満州からの避難者も含めて100万人近い日本人がおり、多くは帰国しましたが、なかには「朝鮮人」としての人生を選択した人もいました。


ソ連の参戦時、「満州国」には160万人ほどの日本人がいました。関東軍・満鉄・政府の関係者は帰国しましたが、兵士・民衆の多くが残されました。60万人前後の兵士・民間人がソ連によってシベリアに抑留されました(詳細は今なお不明)が、そのうち1割ほどの人々は亡くなりました。また、帰国途上で親とはぐれた子どもは中国残留孤児となりました。戦場となった沖縄は本土防衛のための時間稼ぎの捨て石とされ、陸軍中央の混乱もあって住民の4人に1人が犠牲となる悲劇となりました。


1944年、マリアナ沖海戦・レイテ沖海戦で日本海軍は事実上消滅し、絶対国防圏とされたサイパン島も占領されて本土空襲が始まりました。1945年になると、外務省・宮中・重臣など講和派と陸軍など継戦派とがいかに納得する形で降伏に向かっていくかが焦点になりました。そのなかで、近衛文麿は共産革命と天皇制の崩壊を防ぐために、「聖断」シナリオを構想していました。一方で天皇は米軍に打撃を与えたうえでの外交交渉という「一撃講和論」を支持していたといわれます。ドイツ降伏後のソ連の対日参戦というヤルタ密約を知らない日本はソ連を介した講和を画策します。戦争目的も「国体護持」としてそのための本土決戦に備えます。


7月末ポツダム宣言が発せられると、政府は「黙殺」、陸軍は徹底抗戦の構えです。8月、原爆が投下されソ連が参戦するなかで、政府・軍首脳による最高指導者会議は結論を出せず、御前会議は「聖断」による宣言受諾を決定し、連合国に伝えます。これに対する回答を外務省は天皇制存続が認められると解し、天皇も同意します。閣議ではまとまらず、御前会議で天皇は宣言受諾と玉音放送を表明し、陸軍若手将校のクーデタも鎮圧され、8月15日には玉音放送となりました。「聖断」に関しては、天皇が政府・軍部の混乱を見かねて降伏を決断した、というかねてからの「聖断神話説」、天皇が戦局挽回にこだわって降伏を渋り被害の拡大を招いたとする「遅すぎた聖断説」がありました。これにたいし、「聖断」は軍内部の抗戦派を抑えるための演出で、誰もが最初に降伏を言い出すという不名誉を免れ、部下に対する面目を保ちながら戦争を終結させた、という「聖断演出説」も近年唱えられています。


厚生省調べでは、日中戦争から敗戦までの間に約310万人の日本人が犠牲になっています。軍人・軍属の犠牲者230万人のうち60%は餓死・戦病死などで、戦闘によるものではありませんでした。戦後も身体障害や精神疾患に苦しんだ人もいます。また、アジア諸国の犠牲者は2千万人に上るとされます。
いずれにせよ、戦争被害を最も被るのは普通の人々と末端の兵士です。国民の生命・財産・安全を守るという国家目的を達成するうえで、軍拡による安全保障政策が有効な手段といえるのでしょうか。近代日本は戦争と植民地支配によって発展し滅びたのです。また、日本では沖縄以外では広島・長崎などに戦争の痕跡が残っていますが、中国では至る所に痕跡が残っています。韓国でも植民地支配の痕跡が残っています。過去の戦争や植民地支配にどの程度敏感になれるかは、日常生活のなかにその痕跡が残っているかどうかに関係していると思います。

2024-11-10(吉田記)

Filed Under: ニュース・例会報告, 活動報告

九条、他もろもろ

2024年10月27日 by スタッフ

63年の人生を振り返ってみて、本当に我が国史上最も良い時代を生きたと思う。

農家生まれの田舎育ち、小さかったときは貧しかった....という記憶のカケラはあるが、団塊の世代にはほぼ完全にハズれ、高度経済成長のはしりに乗って、青年時代はほどほどのゆとりある大学生活を送ることができた。

学生運動もほぼ収束し安定した社会と経済発展とともに卒業後、社会人になってからは“農”の道に入った。

当初、冷災害等でひどい痛手を被ったこともあったが、気付いてみれば40年の道のりを経ていた。その間、米余りから減反・転作が農政の柱となり、食管法撤廃、食の安心安全、多様化、栄養、グルメ、健康、環境保全、輸入自由化への動き.....食にまつわる国内外の複雑な要因にさらされ続けたが、よき家族を持ち、良き地域社会と人々に恵まれ、ほぼやりたいことをやって、さほど後悔の念もなく、現在の姿にたどり着いていたという次第。しかも、後継者に引き継ぎができるところまで来られたことは本当に喜ばしいことと思う。

先の大戦後72年が過ぎ、翻ってとりあえず安穏とした日本から目を転じ世界を見れば、紛争の惨禍が満ちあふれ、不本意に翻弄された人生を送らねばならない難民のなんと多いことか。

つらつら思うに、私が今あるのは冒頭述べたように明治以降、近代日本においては類い希なる平和と人権が尊重される時代に生まれ、生きて来られた賜物であったからと思う。私の両親、祖父母、さらにその前の時代はずっと貧乏と戦争の影が暮らしに入り込み、生きる(食べる)ことのみの生活で、“夢”ある人生を全うすることがほぼ封じられていたのではなかったか。

だが、今の世相は紛争、テロ、ミサイル攻撃など迫りくる外国からの脅威に対抗するため、自国を守るための自衛隊から同盟国とともに他国をも攻めることのできる軍隊を持てるよう改憲を前提に対策をすべしという声、70年という不戦・平和な時代は現憲法下でひたすら専守防衛のスタンスに徹してきたからという護憲の声、どちらも平和を希求していると思われるのに、真逆からのアプローチになっている。

仮にこの大きな選択をなさなければならなくなったときは、私は迷わず後者をえらぶ。子や孫たちが夢を持って生きられる社会の継続を思うとき、この70年積み上げてきた自衛隊員がただ一人として戦争や紛争で戦死していないという世界に類のない誇るべき普遍的な価値、これをもっともっと積み上げる方向で行くべきと考えるのである。

なんと現実を直視しない無責任な夢想家と思われるかもしれないけれど、現代は力による平和は世界中どこを探してもないように見える。なんといっても一番の国防力を高める方法は国民一人一人の“民度”(自立、知性、教養、品格、労働、健康、涵養、情熱.......)を高めることだと思う。軍備で全てのスキを埋めるという発想ではなく、他国には「あぁこの国民にはツケ込むスキがないだろうな」という、国民の“民力”を高めていく努力が求められるだろう。

公教育は国の専権と捉えず、画一でない、地方ファーストで地域の文化を土台にした多様性を持って民度・民力を高めること、それを束ねて現下の日本国憲法を頂けるのであれば鬼に金棒の日本ができるに違いない。

私のような農家は、時を越えて豊かな恵みをもたらす農地を後代の人々に残していかなければならないと思っている。民度を高めることを約束するのは“平和”と健康を維持できる“食べ物”にほかならないのだから。(K.T)

Filed Under: 憲法and私

今このとき

2024年10月27日 by スタッフ

明治憲法にしばられっぱなしの時代から、敗戦によっての開放されっぱなしの時代も70年の歳月を経た。政治家の世界も、世襲三代目さんが、ぼつぼつ目につくこの頃である。

時代が変われば意識も変わるのが世の習い、受け次いだDNAか、本人の信念か、重要法案を閣議決定のみで通し、軍靴の音がみしみし床を這って迫って来る。近隣国の領海侵犯やミサイル発射等々が、改憲の足並みに拍車をかける。

ここで、ずぶの素人ながら憲法への関心を新たにせざるを得ないこととなった。

昭和21年11月3日新憲法公布。
昭和22年5月3日新憲法施行。

本年は新憲法公布70年、来年は新憲法施行70年の節目をむかえることとなる。
一般的には、憲法と口にしただけで、むつかしく、読むのも厄介なしろものとしての印象がつよい。が、自由平等、男女同権、発言の自由、表現の自由、その他もろもろの自由。

現在では、ごく当り前の自由がテンコ盛りとなって押し寄せたのは、これぞまさしく、新憲法のなせる技。

とは言え、あまり憲法のご厄介になった意識がないのは、人間として生きる当然の生活を、さまざまな圧迫から開放された故に、明治憲法のしばりの強さが先に来る。

占領国となった戦後生活は、敗戦国にありがちの内戦も争乱もなく、世界の国々から、驚きの目を見張らせるところとなった。

識者の言によれば、
「憲法は権力者の暴走をしばり、善意の弱者を保護するために働く」と言う。

「憲法第9条第2項、陸、海、空その他の戦力はこれを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」
なんと、わかりやすい文言ではないか。

空襲警報の発令が鳴る度に、必死に守って来た娘の花嫁衣裳一式が、一升マス一杯の米に変身しようとも、家の中に、夫も兄弟も息子もいる安心感。

「軍隊も武器も兵器も持たせずマルゴシにしたと言うことは、アメリカは、よっぽど、日本軍がおっかなかつたんだろうね。」国やぶれても、一点かちぼしを見つけて、主婦達の井戸端会議は明かるかった。

国民の代表である衆参両院議員の与党は7月の参議院議員選挙により衆参合せて三分の二以上の議員数を得た。

しかし、先の識者の言う、しばられる側の権力者である現政権の在任中に、憲法改正をねらう発議は納得しがたい。拙速である。

此処に来て、忘れることの出来ない発言に出合った。
自ら反戦ジャーナリストと名乗り、故郷の秋田にて、週間新聞「タイマツ」を発刊し発信し続けた、むのたけじ氏の言葉。

「憲法第9条を、ありがたがってはいけない、憲法9条を振りかざして、行動するときが来たのだ。」

これを遺言となして8月21日101歳の生涯を閉じた。

憲法第9条をただの書面として祀り上げるのではなく声を大にして働きかけることが大切なのだ。(M.S) 註:ご本人の了解を得て、短歌誌「新懇」2016年10月号から転載しました。

Filed Under: 憲法and私

危険な「緊急事態条項」

2024年10月27日 by スタッフ

危険な「緊急事態条項」(2016/2/4)

参院選を控え、安倍首相は、あれほど言っていた「安保法の国民への丁寧な説明」もないまま、憲法改正を口にし始めた。

国民の理解を得やすいよう、大規模災害時に首相の権限を強める「緊急事態条項」を新設しようという。

しかし、緊急事態に対するには、何も憲法を改正することはない。東日本大震災で救助、復旧に携わってきた関係者の話もしっかり聞き、多方面にわたる国民的な議論を起こせばよいのではないか。

この条項が新設されれば、安倍政権お得意の拡大解釈で、政権が判断する「緊急事態」には、憲法19条の思想及び良心の自由、21条の集会、結社、表現などの自由も制限されるようになるのではないか。

デモも集会も圧力をかけられ、検閲の禁止も通信の秘密も守られなくなる恐れがある。

一番思い基本的人権までないがしろにされ、憲法の理念がなし崩しにされそうな危険を感じる。緊急事態条項は、健康な樹木を内側から食い破り、腐らせてしまう虫のようなものだと思う。(M.T)

憲法改悪まい進に不安(2015/09/28)

昨年12月、「アベノミクス」継続の是非を問うと言って衆院選に勝利した安倍首相が、「これで憲法解釈変更にも支持を得た」として今回、安全保障関連法を力ずくで成立させた。

最近の豪雨などの災害で、自衛隊員が被災者を救助する姿をテレビなどで見る。今回の安保法成立で、あってはならないことだが、自衛隊員に戦場で不測の事態が起こってしまったらどうするのだろうか。

安倍政権はここぞとばかり、自衛隊員を守るためには、自衛隊を国防軍(軍隊)にしなければならない。そのためには憲法を変えなければならないと打って出るのではないだろうか。

自衛隊員のリスクの増加が安保法を力で通した結果であることを棚に上げ、それを理由に憲法改悪に突き進む不安を感じずにはいられない。

自衛隊は現在、国民を守っている。それが軍隊になって、果たして変わることはないのだろうか。軍隊が国民に優先されることにならないのだろうか。

こんな心配が取り越し苦労に終わるよう祈るばかりである。(M.T)


(注)上記は、北海道新聞「読者の声」欄に掲載された投書を、ご本人の了解を得て転載させていただきました。

Filed Under: 憲法and私

私と戦争、私と日本国憲法

2024年10月27日 by スタッフ

 私は駒ヶ岳大噴火があった年、1929年(昭和4年)に生まれました。駒ヶ岳噴火は20世紀に日本で起きた噴火の中でも最大級といわれるものでした。私の波乱の人生は駒ヶ岳大噴火から始まったと言えると思います。

 子ども時代は戦争の時代でした。父は戦争が終わる前の年に、若くして急性肺炎で亡くなりました。当時、薬が手に入らなかったことも亡くなった原因の一つだと思います。父の妹は薬剤師の家にお嫁に行っていたのですが、多くの薬が軍に持って行かれていたので父の妹を頼っても薬が手に入らなかったのです。

 今だったら亡くなることはなかっただろうと思います。陸軍に関係したことでは函館に千代台公園がありますが、戦時中はそこに陸軍の営舎がありました。戦争が終わると陸軍の幹部たちは食料をトラックに積んでいち早く逃げて行ったと聞いています。市民の生命や生活よりも軍の方が優先されていた時代でした。

 私の生き方を変えたのは15歳の時の空襲です。1945年(昭和20年)7月に北海道空襲{注}がありました。

 昼ごろ外にいたとき突然の空襲がありました。上をちょっと向くと軍用機(グラマン)の下が開いたので爆弾が落ちてくると思ったけれど、逃げる場所もなくとっさに轍(わだち)に顔を伏せました。飛行機が遠ざかっていく姿と周囲に砂煙が舞い上がったことを覚えています。私のすぐ横50㎝位のところには機銃掃射でできた跡が残っていました。

 私は「生きていた!!」と思いました。そして戦争の恐怖を強く体感しました。実は、この日の空襲に遭うまで、私は軍国少女でした。「男だったら少年兵としてお国のために戦います」と作文に書きましたし、戦意高揚に寄与するような絵を描いて校内展覧会で入賞したこともあります。

 それから1ヶ月たち終戦を迎えはっきりと戦争を否定するようになりました。そして次の年に新しい憲法が公布されました。戦争の下で生きるのではなく「平和のうちに生存する権利を有すること(前文)」が高らかに確認されたことに感激し心からの共感を覚えました。

 私に一つ誇ることがあるとしたら、それは選挙を棄権したことがないということです。戦後最初の選挙(1946年4月10日衆議院選挙)の時はまだ20歳になっていなかったので投票できませんでしたが、20歳になってからは一度も棄権することなく投票しています。

 戦前は女性には参政権がありませんでした。新しい憲法に「すべて国民は、法の下に平等(第14条)」「両性の本質的平等(第24条)」「成年者による普通選挙を保障(第15条)」が明記され、女性にも参政権が与えられました。

 「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する(前文)」ということを胸に刻みながら、生きている限り棄権しないで投票します。(A.S) 聴き取り・文責(R.S)



{注}北海道空襲

 アメリカ海軍が1945年(昭和20年)7月14日から15日にかけて北海道各地で行った空襲の総称。一般市民を中心に死者2,000人を超える被害を出した。

 函館では、第38機動部隊から発進したグラマン50余機が7月14日早朝午前5時ごろ、横津岳(亀田郡七飯町にある山)方面から飛来して、午前11時ごろまで波状攻撃を繰り返した。

 アメリカ軍の主な狙いは、港内および津軽海峡を航行中の連絡船であったが、一部市街地にも爆弾が投下され、機銃掃射も行われた。さらに午後1時43分頃にも第2波の攻撃によって、警戒警報、続いて空襲警報が発令され、午後4時20分に空襲警報が解除されるまで、グラマン約30機による攻撃が続けられた。

 機銃掃射や爆弾の投下によって、西部地区の一部、現在の弥生町周辺では火災が発生して、約400戸の住宅が罹災し、全市で少なくとも79名の死亡が確認されている。(総務省ホームページ「函館市における戦災の状況」による)

Filed Under: 憲法and私

軽んじられる人権

2024年10月27日 by スタッフ

日本国憲法は、政府の暴走をくい止める縛りであるとともに、人権を保証した日本の最高法規である。

最近、人権について深く考えさせられる本を拝見した。それは、
① 布施祐仁著「経済的徴兵制」
② NHKスペシャル「消えた子どもたち」取材班編「ルポ 消えた子どもたち~虐待・監禁の真相に迫る」

の2冊である。

① は、安保法(戦争法)が施行され、集団的自衛権の行使が可能となった現在、実際、誰が武器を持ち、生命の危険を冒してまで駆け付け警護をするのか。

生活の困窮から自衛隊へと入隊する若者が、以前から居た。
現在、高校や大学の卒業時に何百万円という奨学金の返済を背負う者も少なくない。迫る返済への不安から、派遣より定職がマシと考える若者も居るだろう。

加えて、自衛隊なら社会に通用する資格が取れるというキャッチでリクルートが行われているという。

自衛官のリクルート費用は、年間200億円以上(2009年)にもなる。安保法(戦争法)が施行された今、「経済的徴兵」が現実となって来るのではないか。

② は、本人の意思や病気でもないのに、義務教育を受けられない子どもたちがいる。

保護者から虐待を受け、監禁され、学校や児童相談所、近所の誰からも気づかれずに生きていた。

やっと救い出された子どもの胸の奥の叫びを聞きながら、二度とこのような悲劇を繰り返してはならないと思う。

私たちは、こうした事柄を強く意識して、子どもやコミュニティーを見つめなければならない。(M.H)

Filed Under: 憲法and私

沈まぬ太陽

2024年10月27日 by スタッフ

時々の社会問題に鋭いメスを入れた著作を世に問うてきた、社会派作家の山崎豊子さん(故人)の作品に「沈まぬ太陽」がある。

フラグキャリヤーの労組委員長を、経営側が「気にくわない」としてカラチ、テヘラン、そしてナイロビと足掛け8年にわたり島流しにする話だが、同じようなことは、民間企業の職場では日常茶飯事であった。

小生が憲法の存在を強く意識するようになったのは、まさにこれと同じような扱いを受けたからであって、「思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」という19条の規定は、激しい差別と嫌がらせを受ける身にとって、言わば「沈まぬ太陽」のごとくひかり輝く存在であった。

若い頃、職を得た大企業でそれこそ身を粉にして働いていたわけだが、そこには、臨時工という、今でいう非正規で働く人々がたくさん居た。彼らは、本社採用の本工とは異なり地元の事業所の採用で、仕事は主に現場の力仕事。給料は、日給・月給である。

そして、有給休暇の日数も少なかったから、仮に病気などで職場を休めばその日の賃金は支払われない。つまり、給料がそれだけ減るわけだから、おちおち病気で休むわけにもいかなかった。

こうした身分による職場支配は、結果として労働者間の対立を生み、賃上げや職場環境の改善等の経営側に対する要求のとりまとめにも齟齬をきたす要因となっていた。

そこで、自覚的労働者の間で、臨時工制度反対!が叫ばれるようになるのだが、このような「支配のしくみ」に直接触れるような要求は、経営側にとっては許しがたく、これと見定めた自覚的労働者に対しては、徹底した弾圧政策がとられた。

職場でのいじめは勿論、両親や家族に対する退職勧告、行動の監視や寮での私生活の調査等々、目を覆いたくなるような非人道的な行為が日夜繰り返えされたのである。

挙句の果て、経営側は、昇給・昇格差別、仕事の取り上げ、関係のない職掌への配置転換に加え、海外勤務の発令等々、徹底した見せしめと抑圧を実行したのだが、結局、世の中の趨勢もあり、臨時工制度は瓦解した。

昨今、ブラックバイトとかブラック企業における非人間的労働が大きな社会問題となっているが、これは今始まったことではなく上記に見るように、いろいろなかたちをとった労働者支配だから、どんな小さな問題でも職場に憲法を取り戻すたたかいとして忍耐強くたたかう必要がある。

最近、日本IBMの労働者が勝ち取った「ロックアウト解雇は無効」という東京地裁の判決は、画期的成果である。(K.O)

Filed Under: 憲法and私

皇后と憲法

2024年10月27日 by スタッフ

今は亡き母はミッチーファンでした。1972(昭和47)年2月に開催された札幌オリンピックのフイギュアスケート会場で、すぐ近くの席から観戦に訪れた皇太子妃を見ることができた、と興奮して語っていたことを思い出します。

その母の7回忌を執り行った年の10月20日、79歳の誕生日を迎えたのに際し、美智子皇后は宮内記者会の質問に文書で次のように回答しました。

「五月の憲法記念日をはさみ、今年は憲法をめぐり、例年に増して盛んな論議が取り交わされていたように感じます。主に新聞紙上でこうした論議に触れながら、かつて、あきるの市の五日市を訪れた時、郷土館で見せて頂いた『五日市憲法草案』のことをしきりに思い出しておりました。

明治憲法の公布(明治22年)に先立ち、地域の小学校の教員、地主や農民が、寄り合い、討議を重ねて書き上げた民間の憲法草案で、基本的人権の尊重や教育の自由の保障及び教育を受ける義務、法の下の平等、更に言論の自由、信教の自由など、204条が書かれており、地方自治等についても記されています。当時これに類する民間の憲法草案が、日本各地の少なくとも40数か所で作られたと聞きましたが、近代日本の黎明期に生きた人々の、政治参加への強い意欲や、自国の未来にかけた熱い願いに触れ、深い感銘をおぼえたことでした。

長い鎖国を経た19世紀末の日本で、市井の人々の間に育っていた民権意識を記録するものとして、世界的にも珍しい文化遺産ではないかと思います。」

これは、皇后の日本国憲法への深い理解を示すものであり、浅薄な「押しつけ憲法論」者への痛打でしょう。日本国憲法の草案を作成したGHQは「民間の憲法草案」を参考にしており、日本国憲法には自由民権運動の精神が脈々と流れているのです。

『五日市憲法草案』を世に送り出したのは、東京多摩地域の自由民権運動を掘り起こしていた色川大吉東京経済大学教授(当時)でした。1968(昭和43)年の秋、五日市深沢家旧宅の土蔵から68年間埋もれていた文書を発見したのです。

私は、仙台の大学で色川大吉の集中講義を受けたことがあります。情熱的な語り口と中身の濃密さ。大学時代における最高の講義でした。その時の感動を今も忘れることはできません。

北広島九条の会の「まなび座」では、憲法学習を重ねてきました。2か月に1回、5名から10名程度が集まり、テキストの読み合わせを行っています。こうした学習運動が自由民権運動期にも全国で展開されていたのです。(M.G)

Filed Under: 憲法and私

  • 1
  • 2
  • Next Page »

ニュース・例会報告

  • 2024年12月例会「近代日本の戦争について考える」シリーズ・第5回」
  • 2024年11月例会「近代日本の戦争について考える」シリーズ・第4回」
  • 2024年9月「北広島近郊3町の戦争遺跡を訪ねるバスツアー」
  • 2024年8月 戦争体験を聞く会 『国後からの引き揚げと戦争の記憶』
  • 2024年6月例会「アジア太平洋戦争への道~近代日本の戦争を考える」
  • 憲法記念日 「憲法と平和・九条の会」パネル展
  • 2024年4月例会「「何のための大増税? ロシア・イスラエルの暴挙を踏まえて岸田大軍拡を斬る」
  • 2024年3月例会「日中戦争の原因と展開」

アーカイブ

  • 2025年2月
  • 2024年12月
  • 2024年11月
  • 2024年10月
  • 2024年9月
  • 2024年8月
  • 2024年6月
  • 2024年5月
  • 2024年4月
  • 2024年3月

Copyright © 2025 · 北広島9条の会 · 〒061-1114北広島市東共栄4-3-16 · Tel・Fax. 011-375-9600